インタビューその@

宝塚時代・子どもの頃を振り返って・・・
★★★汐風幸さん




 
内容は発行した時点での内容です
 

汐風幸(しおかぜこう)プロフィール


★ 汐風幸(しおかぜこう)

東京都出身。目黒区在住。

1988年宝塚歌劇団入団、以後『ベルサイユのばら』『ME AND MY GIRL』『銀ちゃんの恋』『心中・恋の大和路』『凱旋門』など多数の公演に出演。味のある男役スターとして定評。2003年8月、『花の宝塚風土記/シニョール ドン・ファン』にて16年間の宝塚生活に別れを告げ退団。

その後は舞台、テレビドラマ、CMポスターなどで活動。




 

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はがきに住所、氏名、年齢、ターミナルホームページを見たと記入の上、下記まで。
応募多数の場合は抽選、2005年7月31日〆切。当選の発表は発送をもってかえさせていただきます。

152-8799 目黒郵便局私書箱第41号 ターミナル係まで


<この記事は紙媒体の情報紙ターミナルにも掲載しております>
紙媒体のもの(白黒 B4より一回り大きいサイズ一枚)をご希望の方は下記の要領でお申し込み下さい。在庫がある限り対応いたします。メールアドレスterminal@d7.dion.ne.jp

件名を「ターミナル24号送付申し込み」と記入の上、メールにてお申し込み下さい。
その後、メールに記載した住所に80円切手をお送りいただきます。
その切手でご希望の送付先まで郵送いたします。



 

宝塚歌劇団では男役スターとして活躍してきた汐風幸さん。

父と兄は歌舞伎俳優(父:片岡仁左衛門さん、兄:片岡孝太郎さん)、妹は女優(片岡京子さん)という芸能一家でもある汐風さんに、宝塚時代のこと、子どもの頃のことなど、色々とお話を伺った。



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<宝塚生活を振り返って>
「宝塚を退団して2年が経ちますが、自分の人生の中で宝塚という選択肢を選んで本当によかったと思います。音楽学校時代を入れて18年間過ごしてきましたが、芸事はもちろんのこと、仲間意識や支えあう心など宝塚でしか経験できないこともたくさん学ばせていただきました。
この経験は自分の糧になりましたし、楽しかった」と語る。


<宝塚との出会い>
「麻美れいさんが父のファンだということもあり、母と妹はよく宝塚を観に行っていたのですよ。
妹にお姉ちゃんも一緒に行こうよと誘われていたのですが、外で遊ぶ方が好きな子どもでしたので、私はいいから行ってきてーと言っていたのです。

小学5年生のある日、母に一緒に行く人がいないから一緒に行ってと言われて初めて宝塚の舞台を体感したのですが、観たとたん一気にはまっちゃいました。その後はよく妹と通っていたのですが、麻美さんのさよなら公演『はばたけ黄金の翼よ』を観た時、体にビビッと電気が走って直感的に『私もこの舞台に立ちたい!』と思うようになりました。

でも入る為には、試験があってバレエをやっていないといけないとか、音符を読まなきゃいけないとか、宝塚の音楽学校がどんなに厳しいかということも全然知らなかったのです」。


<それからが大変!>
「入りたいと思ったのが中3になる前の春休み、それから両親を説得し宝塚受験の許可をもらうまでに時間がかかりましたので、ようやく夏休み頃からモダンバレエを習い始めました。でも受験科目はクラシックバレエなんですよね。
それに気付いたのが受験の1ヵ月程前。慌ててクラシックバレエも2度ほど習いました(笑)。
普通に習っていたら間に合わないということで元宝塚の方が試験に出やすいようなことをポイントで教えて下さったことや、中学時代体操部だったというのはプラスに働いたかな」。
その年、見事に一度の挑戦で音楽学校への入学が決まり、中学卒業と同時に親元を離れての宝塚生活が始まった。


<音楽学校を卒業し、いざ入団>

2年間の音楽学校生活を終える頃、芸名を決める時期になり・・・
 「芸名は家族会議で決めました。父の屋号が松嶋屋で名前が孝夫ですので、父は松嶋孝子がいいって言っていたのですが、私はさわやかな男役になりたいなと思っていたので、汐風幸と決めました。宝塚に入ったからにはと、迷わず男役を選びましたね。元々自分の性格も男の子っぽいこともありましたので」。
宝塚時代も、片岡孝夫(現・仁左衛門)さんのお嬢さんという見方をされることが多かったのではないかということについては・・・
「父に感謝だなーと思ったのは、本当に父は嫌われるタイプの人間ではないのでマイナスなことは全然なかったですね。ただ、成績があまりよくなかったのですが、父のことが大好きなので、あの娘これしかできないのかーと言われないように、とにかく頑張りました」。


<活発な幼少時代>
「子どもの頃は本当に活発な子でしたね。例えば海に遊びに行った時、兄は砂浜で遊んでいて私は波に向かってワ〜って走るタイプでした。

妹の京子は私が近所の男の子たちと銀玉鉄砲を持って西部警察ごっこをしているときも家で本を読んでいましたので、性格的にはほんと三者三様ですよね。

父や兄が出ている歌舞伎を観に行って、よく妹とお芝居ごっこもしました。女形の笑い方とか言い回しをマネしたり。宝塚にはまってからは、宝塚ごっこもよくしましたね。昔の宝塚のプログラムは台詞なども全部出ていたので、それを見て妹と遊んでいました。

でも、言い争いになると妹が一番しっかりしているタイプなのでいつもかなわないんですね。だからくやしかったのですが、ある時『京子ちゃんは〜』とか即興で曲を作って妹の悪いこととかを言うといじけるということに気付いたんですよ。かわいそうなのであまりやりませんでしたが(笑)。

ほかに子どもの頃のエピソードとしては、兄と妹と私の3人だけで留守番をしている時に地震がきたんですよ。、地震のときはすぐ机の下に隠れなさいと教えられていたので妹と私はすぐに隠れたのですが兄はちゃんとストーブを消してから来たので少し遅れて来たのです。私と妹が入ったらもう机の下はいっぱいになっちゃったので、『お兄ちゃんは入れてあげな〜い』とか言っていました。

兄には私と妹はいつも同盟を組んでいたので、ずるいと言われます(笑)」。 


次号に続く・・・